掲載内容は、吉川町教育委員会・吉川町郷土史研究会編集・発行の 「わたしたちの郷土 よしかわ地名編(平成6年3月30日改訂)」から抜粋したものです。

地名「吉川」のおこり 

吉川は吉河とも書き、古くは吉川郷 風早庄 二郷半領に属し、「吾妻鏡」に載る武蔵武士「吉川三郎」の在所ともいわれる。埼玉郡大口村(さいたま市岩槻区)延文6(1361)年の市の祭文に下総国下河辺庄吉川市とあるのは当初のことで、古くから市が開かれていたことがわかる。

吉川の名義は芦川の意で、昔この付近の低湿地を流れる川にアシが多く生えていたためである。芦の訓はアシであるから悪(アシ)と聞こえるので、芦をヨシともいい、「芦」に当てるに「吉」の文字を持ってしたものと思える。

かつては下総国に属し、その後、武蔵国に属し、江戸時代のほとんどは代官の所轄、明治元年に武蔵知県事に属し、明治2年に小菅県、明治4年に埼玉県の管轄になった。

「吉川」の合併の歴史

明治22年

  • 吉川・須賀・川野・川富・関・平沼・保・木売・高富・高久・中曽根・道庭・木売新田・保村中野分・富新田を合併し、吉川村を設置。
  • 三輪野江・上笹塚・会野谷・吉屋・鹿見塚・加藤・半割・飯島・土場・中井・皿沼・小松川・中島・二ツ沼・関新田を合併し、三輪野江村を設置。※平方新田と深井新田は、明治28年に千葉県から編入。
  • 南広島・上内川・下内川・鍋小路・川藤・拾壱軒・八子新田を合併し、旭村を設置。

大正4年11月1日

町制施行により吉川村を吉川町に改める。

昭和30年3月1日

吉川町、三輪野江村、旭村を合併し、新たに吉川町を設置。

平成8年4月1日

市制施行により吉川町を吉川市に改める。

各町名のおこり(読み方)

道庭(ドウニワ)

古くはドバと呼んだのを後世に道庭の文字をあてたものと思われる。ドバの意味には平らな地形という意があり、おそらくは古利根川沿いの砂地で流域の変化によってできた自然堤防上の平地をなしていただろうことが推測される。

中曽根(ナカソネ)

中曽根のソネの意味には岬の意味があるところからすれば、古くは東京湾がこの近辺まで入り込んでいたころには小さな美しい岬を、あるいは古利根川の流域の変遷による河川の分岐点としての一つの岬をなしていたのではないかと思われる。

高久(タカヒサ)

地名のおこりは明らかではないが、高久の久を(ク)と呼ぶことによって、潰れる、切れるという意味があるようで、これらを引用すると古利根川の荒れるがままに、たびたび堤防が切れたりすることがあり、久しく高い所であってほしいという語をもって前の地名を高久の字をもって変えたことがあったのではないかと思われるが、前の地名が残されていない現在では地名を想像するしかない。

高富(タカドミ)

地名のおこりは明らかではないが、上流に川富の名があるのをみると、おそらくは一種の名田による嘉名(めでたい名前)であろう。高富の高は地形的な高地、富は富めるところの願望がその名を起こしたものと考えられる。

富新田(トミシンデン)

古くは高富村の一部であり、高富の者が開発した新田で、高富村枝郷富新田と称されていたが元禄8(1695)年分村し、元禄15(1702)年に富新田と称されるに至った。富新田の富は高富の富と同じ。

木売(キウリ)

地名のおこりは明らかではないが、古利根川沿いの自然堤防にあって早くより開けていたと思われ、一時的な領土の境界が近くにあって、その境としての柵(キ)とか城(キ)があり、ウリを浦(ウラ)と解せば、河や水の引いてあるところ、柵浦(キウラ)とすれば川が境界とするところと解釈ができ、その後に木売の字を用いた説と、舟着き場として木材の集散地として起こった説があるが、両方の説も明らかではない。

共保(キョウホ)

昭和26年、大相模村大字千疋(現・越谷市)の一部を吉川町に編入。昭和27年に大字共保へと区域の変更と設置を行った。

保(ホ)

保は平安期の小荘園による称とみられる。保とはもともと隣保の義で、大宝令の五保の制度から受け来たるもので、家数に制限がなく、便宜の市街または郷村の一保内の人々が互いに相連絡して団体として自治を行ったもので、後世、この保が一地方を称する地名となって荘園郷保と並び称されるようになった。

平沼(ヒラヌマ)

口碑によれば古利根川の自然堤防上にあって早くより開けたところで、古くは吉川村の内であったと伝えられ、古利根川や荒川の流れの荒れるがままによって作られた沼が多い低湿地がそのままの地名になったと伝える。

吉川(ヨシカワ)

冒頭の「地名『吉川』のおこり」を参照。
吉川氏はおそらくは土地の高い所(当時は武士が一番高い所)、延命寺付近に住していたものと思われる。

木売新田(キウリシンデン) 

その昔は木売村に属し、新田開発によってできた村。元禄年間の改によって木売村から分村し木売新田となる。地名のおこりは木売を参照。

保村中野分(ホムラナカノブン)

現在は中野。保村の新田にて開発された村。元禄の改では保村枝郷中野新田となりその後、中野村として保村より分村となる。その後文政8年頃には中野村と記載され、明治6年に保村中野分と名称変更し、現在に至る。

関(セキ)

関村は古利根川沿いの自然堤防上にあって早くから開けた土地で、吉川村より平沼とともに分村、吉川村への関所という説もあるが、ここでは用水のための堰が正しいと思われ、関村から本田用水が導かれているところからこの地名が起こったものと思われる。

川富(カワドミ)

川富村は富新田の富と同じく川沿いの富ということである。富とは名田による嘉名(めでたい名前)。また、川留村は関に対しての川留の名だとも言われてもいる。

川野(カワノ)

川野村は川富と同じく両村とも川の字が地名となる。川野村の野とは慶長年中1600年頃に開発された土地に多く、川沿いの開きやすい野というところからこの地名が起こったものと考えられる。 

須賀(スカ)

須賀の語源は州処(スカ)または州河とも書き、古利根川の州よりおこっていて、河道の中の砂のかたまりを意味して自然堤防砂州を発達させたものである。砂州は土地も高く乾燥し、砂質なので集落をつくるにはかっこうの地であったと考える。

川藤(カワフジ)

関宿城主より出された文書(1588年)に河藤郷と記録され、元録年中改定図(1688-1703年)川藤村と載る。川藤とは川縁(カワフチ)の意で、古利根川が乱流期に自然堤防上にできた土地で古くより利用される便利な所であった。

拾壱軒(ジュウイッケン)

古くは赤岩村の内の拾壱軒新田と称していたが、元禄8(1695)年の検地の際、拾壱軒村と改めたと伝えられる。当初は赤岩村の新田に移り住む人も少なく、開発当初11軒しか家屋がなかったために自らを拾壱軒村と称したと伝えられている。

南広島(ミナミヒロシマ)

開発当初は広島新田と称していたが、元禄8(1695)年から広島村となる。普通、島とは高い所の地名が多いが、ここでは高い所を示すものではなく川沿いの耕地、川の荒地、あるいは旧河川跡の底湿地を再び畠にした所と考えることができる。この近辺の海抜は3メートル位で宅地は盛土によって高くなっていることなのである。

上内川(カミウチカワ)

古くは内河村として上と下に分かれずにいたが正保の改(1644-1647年)にはすでに分村していた。内河は太日川の流域の荒れるがままに、村内に河川跡としてかなり多くの底湿地を残してその地名、あるいは、河口という地形からこの地名が起こったように思える。

下内川(シモウチカワ)

上内川と同様であるので上内川を参照。

八子新田(ハチコシンデン)

元禄10(1697)年に始めて八子村と地図に載ったが、それ以前はどこの村に属していたかは不明。開墾当時において八戸(8軒)しかなく一つの集落形態をなしていたのではないかと推測するが、寛永8(1631)年の利根川通り渡船場掟には、公認渡船場に八子村と書かれている点からも、早くから人は住み村として存在していたと思われる。

鍋小路(ナベコウジ)

小路は狭く路なのか単なる道なのか確かでないが、下妻道の通過道と考えたい。鍋とは鍋にちなむ路や家があったのかもしれない。ナベはナメの古語によるところとして考える方が強いと思われる。ゆえに土地の平らな滑らかな道と思われる。

三輪野江(ミワノエ)

三輪野江については数多くの説がある。江戸川対岸に三輪山があり、その山に三輪の社があり、それらの前、あるいはその近辺ということの「三輪の辺、みやのへ、宮野辺」、そしてそれら山と社の前は入江であり、底湿地であるところからくる「宮野井、宮野江、三輪野江、三輪の江」の説がある。その他の説に、三輪神社に井戸があったとか、神様のお告げとか、三輪野江をミワノエと呼びミノワと呼ぶことによって箕輪である、よって水(ミ)の輪(ワ)とし、曲流部の半円形の土地としている説があるが、三輪の辺が強い説として考えられる。

飯島(イイジマ)

慶長17(1612)年に埼玉郡見田方村飯島の平右衛門、伊右衛門の二人がこの地に移り、新田を開墾したゆえに彼らの出身地の名をとって飯島新田と称していたが開発当時は半割村に属し、元禄8(1695)年の検地により分村したと伝えられる。

土場(ドジョウ)

地名のおこりは明らかではないが、土場をおそらくは当初はドバと読んでいたのではないかと思われる。ドバとは平地、川や道の合流点とか村の入口という意味があり、その他には河によって流した木材を引きあげるところのの意味があるる。

半割(ハンワリ)

その昔は半割村と称していた。由来は明らかではないが、谷や川や割や沼のつく地名の所は、古くは河川の流域であったらしく土地が低い湿地帯が多いが、半割については地割制度の名残りによる地名と思われる。半割とは地主と小作人、開墾者と資本主の割り当て方でも示し、半分ずつという意味として地名がついたものと思われる。

二ツ沼(フタツヌマ)

古くは高久村の耕地の一部であったが、元禄8(1695)年の検地以後に分村した。それ以前は地名の通り大場川付近にあった二ツ沼からきたもので、それを埋め立てて耕地としたものである。

中島(ナカジマ)

中島の名称は全国でも数多くあるが、当所では太日川、庄内古川や大場川などに包まれた低湿地の小高い所、または川荒れの跡地を再び田畑にしたものによる地名ではないかと思われる。

皿沼(サラヌマ)

地名のおこりは明らかではないが、皿の意味には平坦な所とか乾いたところがないという意味で低湿地であったろうことがわかる。さらに沼とつくところから丸い大きな沼があったのではないかと推測される。

加藤(カトウ)

岩槻城主太田氏に仕え、その後浪人していた加藤五郎左衛門と称すものが開発をし司ったことから、彼の氏をもって村名となったと伝えられている。

鹿見塚(シシミヅカ)

文字通り、鹿を見る塚あるいは鹿をシシと読むことから猪や熊までを指し、鹿狩りなどをする際その展望の好個の場所となってその地名になったのではないかと思われる。『風土記稿』によれば睦田内に四方が一間、高さ二尺くらいの塚であり、これより地名の元となるべしと伝えているが、古塚ということで由来を伝えずとしている。

吉屋(ヨシヤ)

吉屋は慶長年中に開発され右馬之助新田と称していたところから、右馬之助というものが関東郡代伊奈半十郎に従ってこの地の開発を司っていたものと思われ、よって右馬之助新田の名がついたと思われる。その後延宝2(1674)年に吉屋新田となり元禄11(1698)年には吉屋村になった。

小松川(コマツガワ)

小松とは『風土記稿』では「村内に小松寺あるによりて起れる名なるべし」と載せ、さらには小松寺が小松内大臣重盛の追福のために草創されたと伝えることや、ある書に小松というところはみな平家の荘園で、重盛のために寺院が建立されたと述べ、さらには小松の姓重盛のために建てられた社寺やその子孫が残っているという説があるが、文政8(1825)年にも小松寺は記録されておらず、その意味では寺社守がいたものと思われる。

中井(ナカイ)

井のつくところから底湿地帯であることは推測できるが、柳田国男氏の説によれば井とは居(すまいのある集落)や農業を営む所という説がある。しかし、ここでは井の意味を広義に解釈して堰(イゼキ)として見る。中井の沼は中に入ったら二度と出られないと云われる位の無数の渠が迷路状になっていたことを思い出されるであろう。

会野谷(アイノヤ)

地名の「谷」が示すように、古利根川の氾濫時期には当村付近は河川あるいは底湿地であったことが推測される。会野谷の「会野」とは柳田国男氏の説によれば「アイノ田」という字をもって単に里と里との境の意味ではないとされ、饗場の田の意味ではないかとし、饗場・饗庭とは道饗祭(ミチアイマツリ)すなわち邪神祭却の祭場のことであると説明をしている。

関新田(セキシンデン)

浄慶寺の墓石には寛文5(1665)年芦谷村と銘記あり、当時は芦谷村と呼ばれていたものと思われる。かつては関村の内にあって正保のころに関村の新田として開発されたものと『風土記稿』で元禄の改めに始めて記載される。

上笹塚(カミササヅカ)

正保の改めの頃には篠塚村と称していたが元禄の改になって二郷半領内に別に篠塚村ができたので、地理的に吉川の笹塚村に上をつけ上笹塚村と称したと伝えられる。開発当時は笹や篠が多く生えていたものと推測され、この地名が起こったものと思われる。

平方新田(ヒラカタシンデン)

平方の名義には平潟の意味もあるが、太日川沿岸の平坦のところの方角を示すものと解することができる。また、平方の意味にアイヌ語には崖の意味がある。その地域で開発された新田と解することができる。

深井新田(フカイシンデン)

古くは太日川沿いにあって早くより新田として開けた所で、主に自然堤防上に発達した集落形態である。新田開発によってできた深井新田は、治水や堤防を堅固にすることによって、現在に残る村となって成立するのである。