石碑に刻まれた水害との戦い(令和4年9月22日)
吉川市は「文化芸術によるまちづくり」を一つの理念に掲げており、
学芸員をはじめとする担当職員が、「文化財の保護と活用」に力を入れて取り組んでいます。
この日は、調査結果がまとまった「重修加藤樋之碑」を私も視察に現場へ。
この「重修加藤樋之碑」とは
明治29年(1896)9月の水害で壊れた水路を直したことを記念して、明治33年に建てられた石碑。
題額は、石碑が建てられた当時、東京府知事だった千家 尊福(せんげ たかとみ)が揮毫。
千家 尊福は、明治27年から30年(1897)に埼玉県知事を務め、県知事時代には吉川小学校の校歌を作詞した人物。
「碑文」には
「明治29年、秋の長雨で利根川が氾濫して、堤防が決壊した。吉屋と加藤の被害は特にひどく、
稲田は砂地や池のようになってしまった。加藤周助と互井嘉助は悲嘆にくれながらも、新しい水路を作ることを考えた。
三輪野江村長平本蔵之輔、早稲田(現在の三郷市)村長斎藤育三郎らがその案に賛成し、当時の知事だった千家尊福が了承して、工事が始まった。」
と水路を作る経緯が漢文調で書かれています。
しかし、この石碑は、水路脇の市の土地ではないところにあり、
読むことはもちろん近寄ることも難しく、現在ではその存在を知る人も少なくなっています。
この数年で、三度の避難勧告等を発令している吉川市では、いつ水害が起こってもおかしくない状況にあり、
こうした過去を多くの市民が知ることは、水害への準備の面でもとても重要です。
今後は、調査結果を多くの方に知っていただけるような広報と、石碑の保存の仕方に、注力してゆきたいと思います。
令和4年9月22日
吉川市長 中原恵人
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